はじめに
Dolbyが2026年3月23日、Snapを米デラウェア州連邦地裁で提訴し、訴状には陪審請求も付されています。あわせて、Access Advanceは、Dolbyが米国とブラジルでAV1およびHEVCに関する特許侵害を主張したと公表しており、今回の件は単なる一企業間の係争ではなく、AV1の普及を支えてきた「オープンかつロイヤリティフリー」という前提の射程を改めて問い直す出来事になっています。
AV1はAOMediaが2018年に公開した動画コーデックであり、AOMediaは公式に、AV1をロイヤリティフリーの特許方針の下で提供していると説明しています。実際、AOMediaの特許ライセンス1.0は、実装者に対して「Necessary Claims」について無償・ロイヤリティフリーの特許ライセンスを与える枠組みを定めています。他方で、そのライセンスはあくまでライセンサー自身の「Necessary Claims」に限られ、しかも「ライセンスはライセンサーからライセンシーに直接付与される」と明記されています。つまり、AOMediaの仕組みは強力ではあっても、世の中のあらゆる第三者特許を消し去る仕組みではありません。
この訴訟の本質
今回の訴訟で本当に問われているのは、「AV1はロイヤリティフリーか」という抽象論ではなく、「誰の、どの特許について、誰がロイヤリティフリーの約束をしているのか」という極めて具体的な問題です。AOMediaは2019年時点で、会員によるロイヤリティフリーの特許コミットメント、特許デューデリジェンス、特許防御プログラムの存在を強調していました。しかし、Dolbyは自社公式サイトで、AOM Patent License 1.0を受け入れたことはなく、今後も拘束される意思はないと明言し、AV1に関する自社特許はプールライセンスや個別交渉で提供する立場を示しています。
この点を踏まえると、今回の争いは「AOMediaの約束が嘘だった」という話ではありません。むしろ、「AOMedia参加者の約束」と「AOMediaの外にいる、または自らは拘束されないと主張する権利者の特許」は別問題だということが、訴訟という形で可視化されたと見るべきです。ロイヤリティフリーとは、しばしば“無料で安心して使える”と受け取られがちですが、法的には“特定の権利者が、一定範囲の権利について無償許諾する”という意味にとどまる場合があります。今回の訴訟は、そのズレを市場に突きつけています。
見落とされがちなポイント
興味深いのは、AOMediaの会員一覧にSnap Inc.がPromoter Memberとして掲載されていることです。AOMedia自身は、掲載企業がAV1の創出に貢献し、コーデックに必須の自社特許をロイヤリティフリーでライセンスすると説明しています。もっとも、それでもなお第三者から訴えられ得るという点に、今回の訴訟の厳しさがあります。参加者であることと、第三者特許から免責されることは同義ではないということです。
また、Dolby側が問題にしているのは、単なる周辺技術ではありません。報道によれば、色平面間予測、ブロックのマージとスキップモード、低遅延処理向けのサンプル配列符号化、エントロピー符号化に関する4件の米国特許が侵害対象として挙げられています。これらが実際にAV1実装に必須なのか、あるいはSnapの具体的な実装がどこまで特許クレームを充足するのかは、今後の訴訟で詰められる論点です。しかし少なくとも、争点がコーデックの中核に近い圧縮処理に及んでいることは、業界への心理的影響を大きくします。
AV1普及への影響
この訴訟だけで直ちに「AV1は終わった」と評価するのは早計です。AOMediaはなお強固な参加企業基盤を持ち、AV1をロイヤリティフリー方針の下で広げてきましたし、AOM Patent License 1.0や特許防御プログラムも存在します。したがって、AV1の技術的優位や採用実績が一気に消えるわけではありません。
しかし、普及の意味は変わる可能性があります。これまでのAV1は、「HEVCのような複雑なライセンス負担を避けやすい規格」として受け止められてきました。今後は、「AOMedia内部の権利処理は比較的整理されているが、外部特許の主張リスクまではゼロではない規格」として理解される方向に修正されるかもしれません。その場合、動画配信事業者やSNS、端末メーカーは、技術選定の比較軸を「圧縮効率」や「実装コスト」だけでなく、「第三者特許への対応コスト」まで含めて見直すことになります。
実務上の含意
知財実務の観点から重要なのは、オープン規格やロイヤリティフリー規格であっても、導入判断の際には少なくとも三つの層を分けて考える必要があるということです。第一に、標準化団体やコンソーシアムの内部で交わされている特許コミットメントです。第二に、そのコミットメントに参加していない、または拘束を争う第三者特許の存在です。第三に、自社の実装態様が、仕様そのものだけでなく、トランスコード、最適配信、端末判定、ハードウェア支援などの運用レイヤーまで含めて、どの特許リスクを呼び込むかという点です。今回のSnap事件は、まさに第三層まで含めた評価が必要であることを示しています。
しかも、この種のリスクはDolby対Snapだけの特殊事例ではありません。Reutersは、Nokiaが動画ストリーミング技術を巡ってWarner Bros.やParamountを提訴したこと、InterDigitalがAmazonを動画圧縮特許で訴えたことを報じています。動画コーデックや配信最適化の分野では、標準必須特許や周辺特許をめぐる攻防が継続しており、AV1だけが例外的に無風であり続けると考える方がむしろ不自然です。
おわりに
今回の訴訟が示しているのは、「ロイヤリティフリー」と「特許リスクフリー」は同じではないという、知財の世界では本来当然であるはずの事実です。ただ、AV1はその理念の強さゆえに、その差が見えにくくなっていました。だからこそ、Dolby対Snap訴訟は象徴的です。これはAV1の失敗を意味する事件ではなく、オープンな技術エコシステムが成熟段階に入ったとき、結局は契約の射程、特許の帰属、実装の具体性がものを言うという現実を、改めて市場に思い出させる事件だといえます。
