量子技術は、長らく基礎研究の象徴的な分野と捉えられてきましたが、いま明確に「産業化」という次の段階に入りつつあります。欧州特許庁(EPO)と経済協力開発機構(OECD)が発表した最新の共同調査は、その転換点を多角的なデータで浮き彫りにしています。本稿では、この調査内容を踏まえつつ、世界の量子エコシステムの構造変化と、日本が直面している課題と可能性について考察します。
まず注目すべきは、市場規模とイノベーション活動の加速です。世界の量子市場は2035年までに約930億ユーロに達すると予測されており、特許出願、投資、企業数のいずれもが急速に拡大しています。国際パテントファミリー(IPF)の数はこの10年で5倍に増加し、量子技術が研究室の中だけで完結する存在ではなくなっていることを示しています。一方で、調査が繰り返し強調しているのは、技術の規模拡大や商業化が依然として大きな壁であるという点です。
量子技術は大きく、量子通信、量子コンピューティング、量子センシングの3分野に分類されます。このうち、量子通信は長らく特許件数で最大の分野でしたが、近年は量子コンピューティングの成長が際立っています。2005年以降で約60倍に拡大し、今後は量子エコシステムの中心的存在になると見込まれています。これは、AIや材料開発、創薬など、汎用的な応用可能性を持つ技術として期待が集まっていることの表れだと言えるでしょう。
国別に見ると、量子分野のイノベーション競争は明確に国際化しています。IPFの累計では米国が首位に立ち、欧州、日本、中国、韓国が続きます。欧州ではドイツ、英国、フランスが特に存在感を示しており、PASQALやC12のような有望なスタートアップも登場しています。しかし同時に、多くの欧州スタートアップが資金調達やスケールアップの段階で苦戦している点も指摘されています。EPO長官が述べているように、基礎研究を商業的成功へと結びつけるためには、民間資金の呼び込みが不可欠です。
量子エコシステムの構造も興味深い特徴を持っています。全体で4,500社以上の企業が関与している一方、量子技術そのものを中核事業とする「コア量子企業」は1,000社未満にとどまります。これらのコア企業は多くがスタートアップで、公的資金や初期投資に強く依存しています。一方、特許件数や雇用創出の多くは、量子技術を既存事業に取り込む「ノンコア企業」が担っており、実際の商業化を進める主体は大企業であるケースが少なくありません。研究主導の革新と、産業としての実装との間に役割分担が生まれている構図が見えてきます。
この文脈で見ると、日本の立ち位置は決して弱いものではありません。日本は量子関連特許の数で世界第3位に位置し、2005年から2024年の間に1,519件のIPFを保有しています。特に量子通信分野での強みは顕著であり、東芝、NTT、NECといった企業が世界的にも存在感を示しています。実際、東芝はIBMやIntelと並ぶ世界トップクラスの量子特許出願者の一社となっています。また、大学や研究機関も含め、日本勢は各分野のトップ20出願者に数多く名を連ねています。
ただし、懸念すべき点もあります。日本の世界シェアは2020~2024年で13%と依然高水準にあるものの、2015~2019年の16%からは低下しています。これは、他国、とりわけ米国や欧州が投資と人材投入を加速させている中で、日本が相対的に伸び悩んでいる可能性を示唆しています。研究力や特許の質では競争力を維持している一方で、スタートアップの育成や大規模な事業化に向けた資金循環の面では、改善の余地があると言えるでしょう。
調査が示すもう一つの重要な視点は、連携の重要性です。量子技術は単独の企業や研究機関で完結できるものではなく、公的研究機関、スタートアップ、大企業が連携することで初めて社会実装が可能になります。また、量子デバイスに不可欠な部品や材料のサプライチェーンが特定地域や企業に集中しつつある点も、地政学的リスクとして無視できません。加えて、高度な専門知識だけでなく、事業開発やマネジメントといったソフトスキルの不足も、商業化を阻む要因として挙げられています。
以上を踏まえると、量子技術を巡る競争は、単なる研究成果の多寡ではなく、「いかに産業として育てるか」という段階に移行していることが分かります。日本にとって重要なのは、既に蓄積されている技術力と特許資産を、スタートアップ支援や官民連携、国際協調を通じて実際のビジネスにつなげていくことです。量子技術はまだ初期段階にありますが、だからこそ、いまの選択と投資が10年後、20年後の産業競争力を大きく左右する分野でもあります。今回のEPO×OECD調査は、その現実を改めて突きつける内容だと言えるでしょう。
