勤務先から機械の設計図などのデータを不正に取得した疑いで、元社員が逮捕されました。報道によれば、容疑者は約16年間勤務した会社から、プラスチック製品製造機械の設計図など5件のデータを私有ハードディスクに複製・保存した疑いが持たれています。さらに、既に約30万件、容量にして約270GBに及ぶデータを入手していたことも確認されているとのことです。
その後、容疑者は中国の同業種企業へ転職しており、警察は不正競争防止法違反の疑いで捜査を進めています。本件は単なる内部不正の一事例ではなく、企業の営業秘密管理、データ統制、そして国際的な人材移動が交錯する複雑な問題を浮き彫りにしています。
本件の法的枠組み:不正競争防止法における「営業秘密」
本件の中心となるのは、日本の不正競争防止法における「営業秘密」の保護です。営業秘密として法的保護を受けるためには、一般に以下の三要件を満たす必要があります。
- 秘密として管理されていること(秘密管理性)
- 事業活動に有用な技術情報・営業情報であること(有用性)
- 公然と知られていないこと(非公知性)
機械設計図や仕様書は、企業の競争優位の源泉となる典型的な技術情報です。とりわけ製造設備の設計情報は、製品品質や生産効率を左右するコアアセットであり、競合他社にとって極めて価値の高い情報です。
仮にこれらの情報が適切に秘密管理されていた場合、無断複製・持ち出しは不正取得に該当し得ます。
「5件」よりも重い「30万件・270GB」という事実
今回の報道で特に注目すべきは、最初に問題視された5件の設計図よりも、既に約30万件・270GBという大量データの取得が確認されている点です。
これは単発的なファイルコピーではなく、組織的・継続的なデータ蓄積の可能性を示唆します。30万件という規模は、設計図だけでなく、関連する仕様書、実験データ、部品リスト、顧客情報などを含んでいる可能性も考えられます。
データ量の多さは、単に刑事責任の重さに直結するだけでなく、企業にとっての損害規模や影響範囲を飛躍的に拡大させる要因となります。
越境転職と営業秘密流出リスク
容疑者は退職後、中国の同業種企業に転職しています。この点が、本件の社会的インパクトをさらに大きくしています。
グローバル化が進む現代において、人材の国際移動は不可避です。優秀な技術者が海外企業へ転職すること自体は何ら問題ではありません。しかし、その際に営業秘密が持ち出されると、単なる個人の不正行為にとどまらず、国家間の経済安全保障問題にまで発展する可能性があります。
特に製造技術や装置設計は、国際競争力の根幹を支える分野です。ひとたびコア技術が流出すれば、価格競争力や市場シェアに直接的な影響が及びます。
企業側に問われる内部統制とデータガバナンス
本件は、個人の刑事責任の問題であると同時に、企業側の内部統制の在り方も問いかけています。
営業秘密を法的に保護するためには、「秘密管理性」が実質的に確保されている必要があります。具体的には、
- アクセス権限の厳格な設定
- 外部記憶媒体への書き出し制限
- ログ監視・異常検知体制の構築
- 退職時のデータ持出しチェック
- 誓約書・競業避止条項の整備
といった多層的な対策が不可欠です。
特に近年は、クラウドストレージやリモートワークの普及により、データの持ち出しは物理的ハードディスクに限りません。技術的対策と法的対策の両輪で管理体制を強化する必要があります。
技術立国日本への示唆
日本は長年、精密機械や製造装置分野で高い競争力を維持してきました。その強みの源泉は、長年蓄積されたノウハウと現場の暗黙知にあります。
しかし、デジタル化が進む現在、それらのノウハウはデータとして可搬性を持つようになりました。かつては工場の現場に紐づいていた技術情報が、数百GBのデータとして移動可能になっているのです。
今回の事件は、その構造変化を象徴する事案といえます。
おわりに
現時点では、実際に情報が流出しているかどうかは明らかになっていません。容疑者は供述を控えているとされており、今後の捜査の進展が注目されます。
本件は、一企業の内部不正事件という枠を超え、営業秘密管理、越境人材移動、経済安全保障という複数の論点が重なる事案です。
企業にとっては、改めて自社のデータ管理体制を点検する契機となるでしょう。そして私たちにとっても、「情報」がいかに戦略資産であるかを再認識させる事件であるといえます。
