導入
企業の将来性を基に金融機関が融資できる「企業価値担保権」制度が、事業性融資推進法の施行によって始まります。これまで日本では、企業が融資を受ける際、不動産や工場などの有形資産を担保に差し出したり、経営者個人が連帯保証を負ったりする形が一般的でした。そのため、技術やノウハウ、顧客基盤といった価値を持ちながら、目に見える資産に乏しいスタートアップや中小企業は、十分な資金調達が難しい場面が少なくありませんでした。
今回の制度は、そうした企業の無形資産や事業全体の価値を担保として評価し、将来性に基づく融資を促そうとするものです。スタートアップの成長支援だけでなく、経営者保証が重荷となっていた中小企業の事業承継にも追い風になる可能性があります。一方で、金融機関にとっては従来以上に高度な事業評価が求められ、制度の普及には慎重な見方もあります。
このニュースが示しているのは、新しい担保制度の創設にとどまりません。日本の融資慣行そのものが、「過去の実績」や「持っている資産」から、「これから生み出せる価値」へと軸足を移せるかどうかが問われているのだと思います。
「担保がないから借りられない」を変えられるか
この制度の最大の意義は、これまで金融の世界で十分に評価されにくかった企業の価値を、融資の土台に乗せようとしている点にあります。
特にスタートアップは、優れた技術やサービス、優秀な人材、独自の知見を持っていても、不動産や設備のような担保資産を多く保有していないことが一般的です。その結果、事業の将来性があっても、融資よりも出資に頼らざるを得ないケースが多くありました。企業価値担保権が機能すれば、こうした企業にとって資金調達の選択肢が広がることになります。
また、中小企業にとっても意味は大きいです。地域で長年築いてきた取引先との関係、熟練した従業員の技能、地域内での信用、独自の営業網などは、数字だけでは測りにくい一方で、事業の継続性を支える重要な資産です。これらが一定程度金融実務の中で評価されるようになれば、「会社は続けたいが、個人保証が重すぎて承継に踏み切れない」という問題の緩和にもつながる可能性があります。
つまりこの制度は、単に担保の種類を増やす話ではなく、「企業とは何によって価値を持つのか」という認識を、金融の側が改めて問い直す試みだといえます。
銀行に問われるのは「審査」ではなく「理解する力」
もっとも、この制度が始まったからといって、すぐに融資が劇的に変わるとは限りません。むしろ本当のハードルは、ここから先にあります。
従来の融資では、担保不動産の価値や決算書の数字、保証の有無など、比較的形式化しやすい判断材料が重視されてきました。しかし、企業価値担保権では、技術力、知的財産、顧客との継続関係、人的資本、販路、ブランド力といった、定量化が難しい要素まで含めて事業を見なければなりません。
これは、単に審査項目が増えるという話ではありません。金融機関が企業の事業モデルを理解し、その会社がどのように価値を生み出し、どこに競争優位があり、将来どのような成長可能性を持つのかを見極める力が必要になるということです。言い換えれば、銀行に求められるのは「財務情報を読む力」だけではなく、「事業そのものを理解する力」です。
ここで重要なのは、この力は一朝一夕には身につかないという点です。業界ごとの知識、知財や技術の目利き、人材や組織の質を見る視点、地域の商流への理解など、蓄積型の能力が必要になります。制度ができても、実務が追いつかなければ活用は進みません。ニュースの中で銀行業界に様子見ムードがあるとされているのも、まさにこの難しさを反映しているのでしょう。
制度普及のカギは「評価できるか」より「回収できるか」
この制度の将来を考えるうえで、もう一つ見落とせないのがリスク管理です。
融資は、貸す瞬間の審査だけで完結するものではありません。万一、企業が経営危機に陥ったときに、どのように債権を保全し、回収するかという論点があります。不動産担保であれば、評価や換価の仕組みが比較的整っています。しかし、無形資産や事業価値全体を担保とする場合、それをどのように把握し、維持し、必要時に処分・承継していくのかは極めて難しい問題です。
例えば、ある企業の価値が技術者チームや主要顧客との関係性に大きく依存している場合、経営不安が表面化しただけで人材流出や取引縮小が起き、担保価値そのものが急速に傷むおそれがあります。つまり、評価時点では有望に見えた企業価値が、回収局面では想定どおりに残っていない可能性があるのです。
この点を考えると、制度の普及には、単なる「前向きな理念」だけでなく、実際の運用ノウハウや事例の蓄積が不可欠です。どのような業種で使いやすいのか、どの程度のモニタリングが必要か、既存の融資手法とどう組み合わせるのかといった実践知が共有されて初めて、金融機関は本格的に動きやすくなります。
日本の融資慣行を変える入口になりうる
それでもなお、この制度には大きな意味があります。なぜなら、日本の融資慣行が長く抱えてきた課題に対して、正面から切り込んでいるからです。
日本では、経営者保証への依存や、不動産担保を前提とした融資慣行が、挑戦や承継の足かせになってきたと指摘されてきました。新しい事業に挑戦したい企業ほど、有形資産を持たないことが多く、逆に成熟した資産保有型企業のほうが借りやすいという構図は、成長分野への資金供給という観点では必ずしも合理的ではありませんでした。
企業価値担保権は、その構図を変える可能性を持っています。もちろん、すべての企業がこの制度で救われるわけではありませんし、銀行が急にリスクを取れるようになるわけでもありません。しかし、「担保とは土地や建物である」という固定観念を崩し、「事業そのものの価値に着目する」という考え方を制度として明確に打ち出した意義は小さくありません。
この制度が本当に定着すれば、資金調達の世界で評価されるものが変わります。そうなれば、企業側もまた、単に決算を整えるだけでなく、自社の技術、人材、顧客基盤、知財、事業モデルの強みを、金融機関に説明できる形で整備する必要が出てきます。制度は金融機関だけでなく、企業側の情報開示や経営のあり方も変えていくかもしれません。
期待すべきは「一気の普及」ではなく「成功事例の積み上げ」
現実的に見れば、制度開始直後から利用が急拡大する可能性は高くないと思います。銀行が慎重になるのは自然ですし、評価・モニタリング・回収のすべてに新しい実務が必要だからです。
ただし、ここで重要なのは、最初から全国一律に広がることではありません。むしろ、特定の分野や案件で成功事例が生まれ、それが金融界全体に広がっていくことのほうが現実的です。たとえば、知財の価値が比較的明確な技術系企業や、顧客基盤の安定性を把握しやすい事業など、相性の良い領域から活用が進む可能性があります。
その意味で、この制度の成否を分けるのは、法律の施行そのものよりも、施行後にどれだけ良質な事例をつくれるかです。制度を恐れて誰も使わなければ形骸化しますし、逆に無理な運用をして失敗事例ばかりが目立てば、かえって萎縮を招きます。慎重でありながらも、学びのある実践を積み重ねられるかどうかが問われます。
おわりに
企業価値担保権制度の開始は、日本の金融が「何を価値として見るのか」を問い直す出来事です。不動産や個人保証に依存した融資から、技術力や知的財産、人的資本、顧客基盤といった無形の力を含めて事業を評価する方向へ進めるのであれば、その意義は非常に大きいです。
一方で、制度ができたことと、制度が使われることは別です。金融機関の目利き力、実務ノウハウ、リスク管理、企業側の情報発信力など、多くの条件がそろって初めて、この仕組みは機能します。
この制度は、日本の融資をすぐに一変させる魔法ではありません。しかし、これまで見えにくかった企業の強みを金融の世界で正面から評価しようとする点で、大きな転換点になりうる制度です。これから注目すべきなのは、制度が始まったことそのものではなく、どの企業が、どの金融機関が、最初の成功事例をつくるのかという点だと思います。
