導入
ドイツの半導体大手Infineon Technologiesは、2026年7月7日、中国のGaNパワー半導体メーカーInnoscienceによる特許侵害について、米国国際貿易委員会、いわゆるUS ITCの判断が確定したと発表しました。US ITCは2026年5月7日、InnoscienceがInfineonのGaN技術に関する米国特許を侵害したと判断し、対象となるGaN製品の米国への輸入および販売の差し止めを命じていました。その後、米国大統領による60日間の審査期間が終了したことで、この判断が維持された形です。
GaN、すなわち窒化ガリウムは、電力変換の高効率化、小型化、高速スイッチングに強みを持つ次世代パワー半導体材料です。電気自動車、再生可能エネルギー、AIデータセンター、産業機器など、電力を大量に扱う分野で重要性が高まっています。Infineonも、GaNが高性能かつ高効率な電力システムを実現する技術であり、再生可能エネルギー、AIデータセンター、産業自動化、EVなどで重要な役割を果たすと説明しています。
今回のニュースの本質は、GaN半導体の競争が、単なる製造能力や価格競争だけでは決まらない段階に入ったという点にあります。次世代パワー半導体の市場では、「どれだけ作れるか」と同じくらい、「どの技術を権利として押さえているか」が競争力を左右するようになっています。
GaNはなぜ重要なのか
これまでパワー半導体の中心はシリコンでした。しかし、電力変換の効率化や機器の小型化が求められる中で、シリコンだけでは性能面の限界が見え始めています。そこで注目されているのが、SiC、すなわち炭化ケイ素と、GaNです。
SiCは高耐圧・高温環境に強く、EVのインバータや産業機器で存在感を高めています。一方、GaNは高速スイッチングや高電力密度に強みがあり、電源アダプタ、サーバー電源、通信機器、AIデータセンター向け電源などで採用が進みやすい技術です。GaNを使うことで、電源回路を小型化し、損失を抑え、発熱を減らすことができます。
特にAIデータセンターの拡大は、GaNにとって大きな追い風です。生成AIや大規模計算基盤では、GPUやアクセラレータに膨大な電力を安定供給する必要があります。電力変換の効率が少し改善するだけでも、消費電力、冷却負荷、設備コストに大きな差が出ます。つまり、GaNは単なる部品技術ではなく、AIインフラや脱炭素化を支える基盤技術になりつつあります。
Infineonの狙いは「特許で市場のルールを固める」こと
Infineonは、今回のITC判断を、自社の知的財産の強さを示すものと位置付けています。同社は約450のGaN特許ファミリーを持つと説明しており、GaN市場における広範な知財ポートフォリオを前面に出しています。
ここで重要なのは、Infineonが単に損害賠償を求めているだけではないことです。US ITCでの争いは、米国市場への輸入・販売差し止めにつながり得るため、事業上のインパクトが非常に大きい手続です。半導体のようにグローバルサプライチェーンで流通する製品では、主要市場へのアクセスを止められることは、単なる訴訟リスクを超えた経営リスクになります。
Infineonは、300mmウエハーによるGaN製造体制を強調しています。これは、技術を権利で守るだけでなく、大量生産によるコスト競争力も確保しようとしていることを意味します。知財と製造スケールを組み合わせて、GaN市場の主導権を握ろうとしているわけです。
Innoscienceの存在感と中国勢の台頭
一方で、InnoscienceはGaN分野で急速に存在感を高めてきた中国企業です。中国勢は、半導体分野で国産化と量産能力の強化を進めており、GaNもその重要領域の一つです。コスト競争力や量産スピードを武器に、市場シェアを拡大しようとする動きは自然です。
そのため、今回の紛争は、欧州企業と中国企業の一企業間の特許訴訟にとどまりません。次世代パワー半導体において、欧米日の既存大手が築いてきた技術的蓄積と、中国勢の量産力・価格競争力が正面からぶつかっている構図と見ることができます。
ただし、注意すべき点もあります。Innoscience側は、ITC判断について、自社の現行GaN製品はInfineonの特許を侵害しておらず、米国での輸入・販売を継続できるとの立場を示したと報じられています。 したがって、今回の差し止めを「InnoscienceのGaN製品すべてが米国市場から排除される」と単純化するのは適切ではありません。実際の影響は、対象特許、対象製品、設計変更品の扱い、顧客側の採用判断によって変わります。
特許訴訟は市場分断のシグナルでもある
今回の件で興味深いのは、米国とドイツではInfineon側に有利な判断が出ている一方、中国ではInnoscience側がInfineonに対して勝訴したと報じられている点です。Tom’s Hardwareは、2026年6月、中国最高人民法院がInnoscience側の主張を認め、Infineonの一部GaN製品について中国本土での販売・輸入等を禁じる判断を維持したと報じています。
このような状況は、半導体市場が技術面だけでなく、法制度や地政学によっても分断されつつあることを示しています。ある国・地域では販売できる製品が、別の国・地域では特許侵害品として扱われる可能性があります。企業にとっては、単に優れた製品を作るだけでは足りず、各国の特許リスクを踏まえた製品設計、販売戦略、調達戦略が必要になります。
特にGaNのような成長市場では、技術標準が完全に固まり切る前に、多数の企業が重要技術を特許化します。その結果、製品の高性能化と同時に、特許網をどう回避し、どう活用するかが競争戦略の中心になっていきます。
顧客企業にとってのリスク
今回の判断は、GaNメーカーだけでなく、GaN製品を採用する顧客企業にも影響します。たとえば、電源装置メーカー、自動車部品メーカー、データセンター関連企業、通信機器メーカーなどは、部品の性能や価格だけでなく、その部品が主要市場で安定的に供給されるかを見極める必要があります。
仮に採用したGaN部品が特定市場で輸入差し止めの対象になれば、製品の販売計画や量産計画に影響が出る可能性があります。特に米国、欧州、中国のいずれかを主要市場とする企業にとって、知財リスクはサプライチェーンリスクそのものです。
今後、顧客企業はGaN部品を選定する際に、性能、価格、納期に加えて、特許クリアランス、訴訟状況、設計変更の有無、代替調達先の確保をより重視するようになると考えられます。半導体調達における「安いから採用する」という判断は、ますます危うくなります。
日本企業への示唆
日本企業にとっても、このニュースは他人事ではありません。GaNやSiCなどのパワー半導体は、EV、再生可能エネルギー、ロボット、産業機器、通信インフラ、防衛、宇宙など、多くの産業に関わります。日本企業が完成品メーカーとしてGaN部品を採用する場合にも、あるいは材料・装置・部品メーカーとしてGaNサプライチェーンに関わる場合にも、知財戦略は避けて通れません。
特に重要なのは、研究開発の成果を早い段階で特許ポートフォリオ化することです。GaNのような基盤技術では、製造プロセス、デバイス構造、パッケージ、熱設計、駆動回路、応用回路、信頼性評価など、多層的な技術領域で特許が形成されます。単一の基本特許だけで市場を押さえるというより、周辺技術も含めた面の権利化が重要になります。
また、海外市場を見据える企業は、日本出願だけでなく、米国、欧州、中国での権利化と侵害リスク調査を組み合わせる必要があります。今回のように、同じ技術分野でも国・地域によって勝敗が分かれることがあるため、グローバルな知財戦略が事業戦略と一体化していなければなりません。
「技術で勝つ」だけでは足りない時代
今回のInfineonとInnoscienceの争いは、次世代半導体競争の本質をよく示しています。競争の軸は、性能、量産能力、価格、顧客基盤だけではありません。そこに、特許ポートフォリオ、輸入差し止め、各国裁判所の判断、地政学的リスクが加わっています。
GaN半導体は、脱炭素化とデジタル化を支える重要技術です。その市場が拡大すればするほど、技術をめぐる権利争いも激しくなります。今回のITC判断は、Infineonにとって大きな勝利であると同時に、GaN市場が本格的な知財競争の段階に入ったことを示す象徴的な出来事です。
これからの半導体企業に求められるのは、優れた技術を開発する力だけではありません。その技術を守り、使える市場を確保し、顧客に安心して採用してもらうための知財戦略です。GaN半導体の主導権争いは、工場の中だけでなく、特許庁、裁判所、国際貿易機関の場でも決まっていきます。
