8.97億ドルは「敗訴の代償」ではない――SamsungとNetlistの和解が映すAIメモリー時代の特許戦略

Samsung Electronicsと米メモリー技術企業Netlistが、約5年にわたって続けてきた特許紛争に終止符を打ちました。両社は、特許ポートフォリオのクロスライセンス、DRAMやNANDフラッシュなどのメモリー製品の供給、技術協力を含む5年間の契約を締結し、係争中の特許訴訟などを終了するとしています。

契約によってSamsungは、サーバー向けDIMMやHBM(High Bandwidth Memory)を含むNetlistの特許ポートフォリオを利用できるようになります。一方、NetlistはSamsungからメモリー製品の供給を受けます。さらにSamsungは、ライセンス契約金としてまず2億3900万ドルを支払い、その後も2026年第3四半期から2031年第2四半期まで、売上に連動して1四半期当たり最大3290万ドルを支払うとされています。すべて上限まで支払われた場合、ライセンス料の総額は8億9700万ドルに達します。

一見すると、長期間争ってきたSamsungが巨額の費用を支払って決着したニュースにも見えます。しかし今回の合意でより注目すべきなのは、その金額そのものよりも、両社が「訴訟によって過去の特許侵害を争う関係」から、「特許と製品を相互に利用しながら将来のAIメモリー市場を開拓する関係」へと転換したことではないでしょうか。

8.97億ドルを単純な「和解金」と見るべきではない

今回報じられている最大8億9700万ドルという数字は非常に大きく、過去の損害賠償評決と結び付けて考えたくなります。

実際、NetlistはSamsungとの訴訟で、2023年に3億300万ドル、2024年には1億1800万ドルの損害賠償を認める陪審評決を獲得しています。Samsungは特許の有効性や侵害の有無を争い、その後も控訴などが続いていました。

しかし、今回の最大8億9700万ドルは、その全額が過去の行為に対する損害賠償として一括して支払われるわけではありません。

まず2億3900万ドルのライセンス料が支払われ、残りは今後5年間にわたり、Samsungの売上に連動する形で四半期ごとに支払われます。しかも3290万ドルという数字は各四半期の「最大額」です。

つまり、この契約には過去の紛争を清算する側面と同時に、Samsungが今後Netlistの特許を利用して事業を継続するための「将来の技術アクセスに対する対価」という側面があります。

今回のニュースを「SamsungがNetlistに最大8.97億ドルの和解金を支払った」とだけ捉えると、契約の本質を見誤る可能性があります。

AI時代に価値が高まる「メモリー特許」

今回の合意が持つ意味を大きくしているのが、対象となる技術分野です。

Netlistの特許ポートフォリオには、サーバー向けDIMMやHBMに関する技術が含まれています。HBMは、GPUなどの演算装置と大量のデータを高速にやり取りするためのメモリーとして、生成AIやAIデータセンターの拡大とともに重要性が急速に高まっています。Reutersも、AIデータセンターの拡大によって高性能メモリーへの需要が急増していることを今回の合意の背景として挙げています。

半導体特許というと、かつては製品の一部に使われる技術をめぐる権利という印象もありました。しかし現在のAIインフラでは、演算能力だけでなく、どれだけ高速にデータを供給できるかがシステム全体の性能を左右します。

その結果、メモリーそのものだけでなく、メモリーモジュールの構成やデータ転送、負荷低減などに関する技術も、AI産業を支える重要な知的財産になっています。

Netlistが長年争ってきた特許の経済的価値も、AIによるHBM需要の拡大によって以前とは異なる意味を持ち始めていると考えられます。

Samsungが買ったのは「特許」だけではなく「予見可能性」

Samsung側から見ると、今回の契約にはもう一つ大きなメリットがあります。

それは、知的財産に関する不確実性を減らせることです。

Netlistとの紛争では、2023年と2024年に巨額の損害賠償評決が出ただけでなく、特許の有効性をめぐる手続や控訴が続いていました。さらに2026年7月には、Netlistの申立てを受け、米国際貿易委員会(ITC)がSamsungのメモリー製品などを対象とする調査を開始していました。

特にITC手続では、条件によっては米国への製品輸入に影響する可能性があります。

Samsungにとって、AI向けメモリーの需要が急拡大している時期に、HBMやサーバー向けメモリーをめぐる法的リスクを抱え続けることは、単なる訴訟費用以上の経営リスクになり得ます。

ライセンス料が高額であっても、5年間にわたって特許ポートフォリオへのアクセスを確保し、既存の訴訟を終了させることで、製品開発や販売をより予見可能な状態にできるのであれば、その価値は小さくありません。

言い換えれば、Samsungが今回購入したものの一つは「訴訟の終結」ではなく、「安心して事業を続けられる時間」だとも考えられます。

Netlistにとっても「勝訴」より大きな転換

Netlist側にとっても、今回の合意は単にライセンス収入を獲得したという話にとどまりません。

特許を保有する企業が大企業を相手に訴訟を続けるには、多額の訴訟費用と長い時間が必要です。陪審から損害賠償を認める評決を得ても、その後に控訴や特許無効をめぐる手続が続けば、実際にどの程度の金額をいつ回収できるのかは確定しません。

今回Netlistは、その不確実な状態から、5年間にわたって売上連動型のライセンス収入を得られる可能性がある状態へ移ります。

さらに重要なのが、SamsungからDRAMやNANDフラッシュなどの製品供給を受ける契約まで組み込まれていることです。Reutersによれば、今回の契約では特許利用だけでなくSamsungによるNetlistへのDRAM・NAND供給も合意されています。

つまりNetlistは、Samsungを「特許侵害を争う相手」から「自社の製品事業を支える供給者」へと変えたことになります。

裁判で勝ち続けることと、知的財産を安定した事業収益やサプライチェーンに変換することは同じではありません。今回の合意は、Netlistが後者を選択した点に大きな意味があります。

「クロスライセンス」が示す和解以上の関係

もう一つ注目したいのが、単純な特許ライセンスではなく「クロスライセンス」という形が採られていることです。

クロスライセンスでは、一般に双方が一定範囲の特許を相互に利用できる関係を構築します。

半導体のように、一つの製品に膨大な数の技術が組み合わされる産業では、すべての技術を一社だけで完結させることは容易ではありません。競合企業や取引先との間で特許を相互利用できる状態を作ることは、訴訟リスクを減らすだけでなく、新製品を開発するときの自由度を高める意味もあります。

しかも今回は、クロスライセンス、製品供給、技術協力が一つのパッケージになっています。

これは「争いをやめましょう」という消極的な和解よりも、「互いの技術と事業基盤を利用できる関係を作りましょう」という積極的な事業契約に近いものです。

特許訴訟の本当のゴールは「判決」とは限らない

今回のSamsungとNetlistの合意は、企業にとって特許訴訟とは何のために行うものなのかを改めて考えさせる事例でもあります。

もちろん、特許権者にとって裁判で侵害を認めてもらうことは重要です。一方、企業経営という観点では、判決そのものが最終目的とは限りません。

特許によって交渉力を獲得し、その交渉力をライセンス収入、製品供給、共同開発、クロスライセンスなどの事業上の利益へ変換できれば、訴訟はより大きな商取引を成立させるための過程だったと見ることもできます。

実際、SamsungとNetlistは数週間前までITCを含む複数の場で争っていました。それが今回、一転して5年間の戦略的関係を構築しました。

競争相手と法廷で徹底的に争った末に、互いに必要なものを交換する契約へたどり着くという展開は、一見すると矛盾しているように見えます。

しかし、知的財産ビジネスではむしろ合理的です。

「AI半導体戦争」は製造技術だけで決まらない

AI半導体をめぐる競争では、GPUの性能や半導体製造プロセス、HBMの生産能力などが注目されがちです。

しかし今回の紛争を見ると、その背後にはもう一つの競争が存在することが分かります。

それが知的財産です。

どれほど優れた製造能力を持っていても、製品を構成する重要技術について第三者が強い特許を持っていれば、その企業との交渉を避けられない場合があります。反対に、製造規模では巨大企業に及ばない企業でも、基盤的な特許を保有していれば、世界最大級の半導体メーカーとの交渉力を持つことができます。

SamsungとNetlistの5年間の特許紛争が、最終的に最大8億9700万ドルのライセンス契約と製品供給、技術協力を含む関係へ変わったことは、そのことを象徴しています。

AI時代の半導体競争で問われるのは、「誰が最も多くチップを作れるか」だけではありません。

「誰が、そのチップを作るために必要となる技術への権利を持っているのか」。

今回のSamsungとNetlistの合意は、AIインフラの主役となったメモリー市場において、特許ポートフォリオそのものが製造能力や供給能力と並ぶ重要な経営資源になりつつあることを示す事例といえるでしょう。