導入
ベトナム外務省のファム・トゥー・ハン報道官は、2026年5月14日の定例記者会見で、米国の2026年版「スペシャル301条報告書」に関する見解を示しました。米国通商代表部、すなわちUSTRは2026年4月30日に同報告書を公表し、ベトナムを「Priority Foreign Country」、すなわち知的財産保護上の最重要懸念国として特定しました。USTRは、今回の指定を受けて、30日以内に通商法301条に基づく調査を開始するかどうかを判断するとしています。
これに対し、ベトナム側は、知的財産権侵害を厳格に取り締まり、保護と執行をさらに強化することが一貫した立場であると説明しました。特に、2005年の知的財産法制定以降、数次の改正を重ね、2025年改正によって新世代自由貿易協定上の義務にも対応する現代的な法的枠組みを整備してきた点を強調しています。
米国の評価とベトナムの自己評価のずれ
今回のニュースで重要なのは、米国がベトナムを単なる「監視対象」ではなく、より重い「優先外国」として位置づけた点です。これは、米国がベトナムの知財保護を単なる制度改善の途中段階ではなく、通商上の問題として捉えていることを示しています。
一方で、ベトナム側の反応は、正面から反発するというよりも、「法制度の整備」「執行実績」「国際協力」を示しながら、公平で客観的な評価を求める内容になっています。つまり、ベトナムは米国の懸念を完全に否定しているのではなく、自国の改善努力が十分に評価されていないという構図を作ろうとしているように見えます。
このずれは、知財制度をめぐる典型的な問題です。法律を整備した国は「制度は改善された」と主張しますが、権利者側や通商相手国は「市場で実際に侵害が減っているか」「裁判や行政処分が十分に機能しているか」「オンライン上の侵害に迅速に対応できているか」を重視します。制度の有無と、実効性の評価は同じではありません。
数字が示す「取り締まりの強化」と「侵害の根深さ」
ベトナム側は、2025年に市場管理部門が従来型市場で3,306件、電子商取引・ソーシャルメディア上で599件の知的財産権侵害案件を処理したと説明しています。また、著作権侵害の疑いがあるウェブサイト1,200件以上をブロックしたともされています。
これらの数字は、ベトナムが実際に取り締まりを進めていることを示す材料になります。しかし同時に、侵害が依然として大規模に存在していることの裏返しでもあります。特に注目すべきなのは、従来型市場だけでなく、電子商取引、ソーシャルメディア、著作権侵害サイトといったデジタル領域が明確に問題化している点です。
かつての知財侵害は、模倣品の流通や店舗販売が中心でした。しかし現在は、ECプラットフォーム上の模倣品販売、SNSを使った販売、動画・音楽・映像コンテンツの違法配信、ソフトウェアの無断使用など、侵害の形態が分散化しています。これに対応するには、行政による摘発だけでは足りません。プラットフォーム事業者、権利者、決済事業者、物流事業者を含む複数主体の協力が必要になります。
2025年改正の意味は「法整備の完了」ではない
ベトナム側が2025年の知的財産法改正を強調している点は重要です。新世代自由貿易協定に対応した制度整備は、国際的な投資環境を整えるうえで不可欠です。知財保護が弱い国では、研究開発型企業、ブランド企業、コンテンツ企業が安心して事業展開しにくくなります。
ただし、法律が改正されたことは出発点にすぎません。実務上は、行政機関が迅速に動けるか、裁判所が専門性を持って判断できるか、損害賠償が十分な抑止力を持つか、税関が模倣品を水際で止められるか、オンライン侵害に対する削除・ブロックが適正かつ迅速に機能するかが問われます。
米国側が問題視しているのも、まさにこの「執行の実効性」だと考えられます。ベトナムが法改正を進めていること自体は評価され得ますが、それが市場の現実をどこまで変えているのかが、今後の焦点になります。
知財問題は米越通商関係の交渉カードになる
スペシャル301条報告書は、知財分野の年次報告書であると同時に、米国の通商政策上の圧力手段でもあります。USTRは、ベトナムを優先外国に指定したことを受け、通商法301条に基づく調査を開始するかどうかを判断するとしています。調査が開始されれば、協議や是正要求を通じて、知財保護の強化がより強い通商交渉のテーマになります。
ここで注意すべきなのは、知財問題が単独で存在しているわけではないという点です。ベトナムは製造拠点として重要性を増しており、米国企業にとってもサプライチェーン上の重要国です。その一方で、模倣品、デジタル著作権侵害、ブランド保護、ソフトウェアライセンスなどの問題が放置されれば、米国企業の不満は高まります。
そのため、知財問題は、関税、投資、輸出管理、デジタル貿易、サプライチェーン再編と結びつきやすいテーマです。ベトナムとしては、単に「国内の知財法を整備する」という段階を超え、通商摩擦を抑えるためのリスク管理として知財執行を強化する必要があります。
日本企業にとっての示唆
このニュースは、米国とベトナムの問題にとどまりません。ベトナムに生産拠点、販売網、委託先、現地パートナーを持つ日本企業にとっても、知財管理の重要性が高まることを意味します。
まず、模倣品対策の観点では、商標登録、意匠登録、税関登録、現地での監視体制がより重要になります。ベトナム当局の取り締まりが強化される局面では、権利者側が適切な権利を取得し、侵害情報を整理して当局に提供できるかどうかが、実際の対応速度を左右します。
次に、コンプライアンスの観点では、現地法人や委託先によるソフトウェア利用、ライセンス管理、広告素材・画像・動画の利用、EC販売における第三者権利の確認が重要になります。知財侵害への取り締まりが強化されると、模倣品を売る側だけでなく、無自覚に侵害品や無許諾コンテンツを扱っている企業もリスクを負うことになります。
さらに、取引先管理の観点では、現地サプライヤーや販売代理店が第三者の知財を侵害していないかを確認する必要があります。米国が知財問題を通商上の懸念として扱う以上、グローバル企業は、ベトナム国内だけでなく、輸出先市場での信用リスクも意識しなければなりません。
ベトナムの課題は「評価される執行」への転換
ベトナム側は、知財保護を強化していることを国際社会に示そうとしています。その方向性自体は合理的です。外資誘致、技術移転、ブランド育成、デジタル経済の発展を進めるうえで、知財保護は不可欠なインフラだからです。
ただし、今後ベトナムに求められるのは、単に取り締まり件数を積み上げることではありません。米国や権利者から見て、予見可能で、迅速で、抑止力があり、公平に運用される執行体制を示すことです。言い換えれば、「努力している」と説明する段階から、「市場の行動が変わっている」と評価される段階に移る必要があります。
その意味で、今回の外務省報道官の発言は、単なる反論ではなく、ベトナムが知財保護を国際的な信用形成の要素として位置づけ直していることを示すものです。
おわりに
今回のニュースは、知的財産権の問題が、もはや法律専門家だけのテーマではなく、通商政策、投資環境、サプライチェーン、デジタル経済の信頼性に直結するテーマであることを示しています。
米国はスペシャル301条報告書を通じて、ベトナムに対して知財保護の実効性を強く求めています。一方、ベトナムは法改正や取り締まり実績を示し、客観的で公平な評価を求めています。この対立は、単純な「米国の圧力」と「ベトナムの反発」ではなく、成長市場が国際的な知財ルールの中でどのように信頼を獲得していくかという問題です。
今後の焦点は、ベトナムが制度整備を実際の市場改善につなげられるかどうかです。知財保護をめぐる評価は、ベトナムの投資先としての魅力、輸出拠点としての信頼性、そして米国を含む主要国との通商関係に大きな影響を与えることになります。
