はじめに
米国通商代表部、すなわちUSTRは5月29日、ベトナムにおける知的財産権の保護および執行に関する政策・慣行について、1974年通商法301条に基づく調査を開始したと発表しました。
背景には、USTRが4月30日に公表した2026年版スペシャル301条報告書があります。同報告書でベトナムは、知的財産権の保護や侵害への取り締まりが特に問題視される「優先国」に指定されました。USTRは、オンライン海賊版への継続的かつ効果的な対応、偽造品への執行、国境管理、無許可ソフトウエアの使用への対処、ケーブル・衛星信号の盗用に対する刑事措置などが不十分であると指摘しています。
通商法301条調査は、単なる実態調査にとどまりません。調査の結果、外国の措置や慣行が不合理または差別的であり、米国の商業に負担や制限を与えていると判断されれば、追加関税などの対抗措置につながる可能性があります。今回のニュースは、知的財産権の保護が、企業法務や権利者保護の問題にとどまらず、国家間の通商交渉に直結するテーマになっていることを示しています。
なぜベトナムが問題視されたのか
今回の調査で注目すべき点は、ベトナムの知財制度そのものだけでなく、「執行」の実効性が問題とされていることです。
知的財産制度は、法律を整備すればそれで十分というものではありません。商標権、著作権、特許権などを保護する規定があっても、実際に模倣品や海賊版を止められなければ、権利者にとっては十分な保護とはいえません。
USTRが特に問題視しているのは、オンライン海賊版や偽造品のように、国境を越えて被害が拡大しやすい分野です。海賊版サイトが一国に拠点を置きながら世界中の利用者にコンテンツを提供する場合、被害はその国の国内問題にとどまりません。また、偽造品が国際的なサプライチェーンを通じて流通すれば、ブランド価値の毀損や消費者被害にもつながります。
つまり、米国から見れば、ベトナム国内の執行不足は、米国企業の利益や米国のコンテンツ産業、ブランド産業に直接影響する問題として位置付けられているのです。
301条調査の重み
通商法301条は、米国が不公正な貿易慣行に対して一方的な対抗措置を検討するための強力な制度です。知的財産分野では、過去にも米国が他国の制度や運用を問題視し、通商交渉上の圧力として活用してきました。
今回の調査も、直ちに追加関税が発動されるという意味ではありません。しかし、301条調査が開始されたこと自体が、米国がこの問題を単なる懸念表明の段階から、より強い通商上の手続に移したことを意味します。
特にベトナムは、近年、製造拠点としての存在感を高めてきました。中国リスクの分散先として、また米国市場向けの輸出拠点として、ベトナムの重要性は増しています。そのような国に対して301条調査が開始されたことは、知財保護の問題がサプライチェーン戦略にも影響し得ることを示しています。
米越貿易交渉との関係
今回の調査は、米国とベトナムの貿易協定に関する交渉が進む中で行われています。米国とベトナムは2025年に二国間の貿易協定の枠組みで合意し、その後も最終調整が行われていると報じられています。
このタイミングで知財問題が301条調査に発展したことは、米国が貿易協定の文脈でも知財執行の改善を重要な交渉材料として位置付けている可能性を示しています。
知財条項は、自由貿易協定や経済連携協定において重要な構成要素です。しかし、近年の焦点は、条文上の保護水準だけではなく、実際に侵害を止められるか、権利者が迅速に救済を受けられるか、刑事・行政・民事の執行が機能しているかに移っています。
今回の件も、米国がベトナムに対して、単に制度改正を求めているのではなく、継続的で抑止力のある執行体制を求めている点に意味があります。
日本企業にとっての示唆
このニュースは、米国企業だけの問題ではありません。ベトナムに製造拠点を置く日本企業、ベトナム市場でブランド展開する日本企業、あるいはベトナムを含むASEAN地域でコンテンツやソフトウエアを展開する企業にとっても重要です。
第一に、模倣品対策や海賊版対策は、現地代理人に任せるだけでは足りない局面が増えています。オンライン上の侵害は、ドメイン、サーバ、決済、広告、SNSなど複数の経路を通じて拡散します。そのため、権利取得、監視、削除申請、行政摘発、刑事告訴、税関登録といった手段を組み合わせる必要があります。
第二に、ベトナムで事業を行う企業は、自社が侵害被害を受ける側であると同時に、ソフトウエア使用やライセンス管理の面でコンプライアンスを問われる側にもなり得ます。USTRが無許可ソフトウエアの使用を問題視している点は、現地法人や委託先を含めたソフトウエア管理体制の重要性を示しています。
第三に、通商リスクとしての知財リスクを意識する必要があります。仮に追加関税や輸入制限のような措置が検討される場合、影響は知財部門だけでなく、調達、製造、物流、販売、経営企画にも及びます。知財問題は、もはや知財部門だけで完結するテーマではありません。
「知財保護」は投資環境そのもの
ベトナムは、製造業の移転先、消費市場、デジタル経済の成長市場として高い注目を集めています。その一方で、知的財産権の執行が十分に機能しなければ、先端技術、ブランド、コンテンツ、ソフトウエアを持つ企業にとっては投資リスクが高まります。
知財保護は、単に権利者を守る制度ではありません。正規品が適正に評価され、創作物や技術開発に対する投資が回収され、消費者が安全な商品やサービスを選べる市場環境を作るための基盤です。
その意味で、USTRの今回の動きは、ベトナムに対する圧力であると同時に、知財保護を投資環境の中核として捉える米国の姿勢を示すものでもあります。
おわりに
今回の301条調査は、ベトナムの知財制度をめぐる問題であると同時に、知的財産権が国際通商政策の重要な争点になっていることを象徴する出来事です。
今後の焦点は、ベトナムがどのような改善策を示すか、米国がそれを十分と評価するか、そして調査結果が具体的な通商措置に結び付くかです。
企業にとって重要なのは、このニュースを単なる米越間の通商摩擦として見るのではなく、自社の海外展開における知財リスク、サプライチェーンリスク、コンプライアンスリスクを点検する契機とすることです。知財保護の実効性は、海外市場で安心して事業を展開できるかどうかを左右する重要なインフラになっています。
