知財保護は「国内制度」から「通商リスク」へ――USTRのベトナム調査が示すもの

はじめに

米国通商代表部、すなわちUSTRが、1974年通商法301条に基づき、ベトナムの知的財産権の保護と執行に関する調査を開始しました。これに対し、ベトナム外務省のファム・トゥー・ハン報道官は5月30日、この調査は米国法に基づく手続きであるとしつつ、米国に対して客観的かつ公平な評価を求めました。

ベトナム側は、知的財産権の保護と執行強化を、透明で健全な投資・ビジネス環境の構築、イノベーションの促進、国際的な公約の履行に不可欠な政策として位置付けています。また、調査の過程で協議や情報共有を継続する姿勢を示し、これまでの努力と実質的な成果を米国に十分認めるよう求めています。

今回の動きは、単にベトナム一国の知財制度をめぐる問題にとどまりません。知的財産権の保護・執行が、国際通商政策やサプライチェーン、企業活動に直結する時代になっていることを示す事例といえます。

USTRによる301条調査の重み

1974年通商法301条に基づく調査は、米国が相手国の通商慣行を問題視する際に用いる強力な手続きです。調査の結果、米国企業にとって不公正または不合理な慣行があると判断されれば、追加関税などの貿易措置につながる可能性があります。

今回、問題とされている中心は、ベトナムにおける知的財産権の保護と執行です。特に、USTRが4月30日に発表した「2026年版スペシャル301条報告書」において、ベトナムは「優先監視国」に指定されています。その理由として、デジタル環境における著作権侵害への執行が非効率であることなどが挙げられています。

ここで重要なのは、知財制度の整備そのものだけでなく、実際に侵害を止められるか、権利者が実効的な救済を受けられるかが問われている点です。法律が存在するだけでは不十分であり、行政、司法、税関、プラットフォーム対応などを含めた執行の実効性が評価対象になります。

ベトナム側の主張と成果

ベトナム側は、知的財産権保護に消極的であるという見方には距離を置いています。ハン報道官は、知財保護と執行強化がベトナムの一貫した方針であると強調しています。

実際、ベトナムはイノベーション政策の面で一定の成果を示しています。世界知的所有権機関、すなわちWIPOの2025年版「世界技術革新力ランキング」では、139か国・地域中44位とされ、ASEANの中でも良好な位置にあります。これは、ベトナムが単なる低コスト生産拠点ではなく、技術開発やスタートアップ育成を含む成長モデルへ移行しようとしていることを示しています。

さらに、5月5日には首相が知的財産権侵害行為への対策を指示する首相公電第38号/CD-TTgを公布しています。これは、米国からの圧力に対する形式的な反応というよりも、国内の投資環境を改善するための政策対応としても位置付けられます。

もっとも、米国が重視するのは、こうした政策文書やランキング上の評価だけではありません。実際の市場で模倣品、海賊版、デジタル著作権侵害がどの程度抑止されているか、権利行使が迅速かつ予測可能に行われているかが問題になります。そのため、ベトナム側としては、制度改正や行政指導だけでなく、執行実績を具体的に示す必要があります。

問題の核心は「制度」よりも「執行」

知的財産権をめぐる国際的な評価では、近年、「制度があるか」よりも「機能しているか」が重視される傾向があります。

たとえば、特許法、商標法、著作権法が整備されていても、侵害品の摘発が限定的であったり、裁判に時間がかかりすぎたり、損害賠償額が低く抑えられたりすれば、権利者にとっては十分な保護とはいえません。特にデジタル環境では、海賊版コンテンツや模倣品販売サイトが短期間で拡散し、国境を越えて流通します。そのため、従来型の摘発や訴訟だけでは対応が追いつかない場面が増えています。

USTRがベトナムについてデジタル環境での著作権侵害への執行を問題視している点も、この流れの中で理解できます。デジタル分野では、権利侵害の発見、削除要請、再発防止、プラットフォーム側の協力、刑事・行政的措置の連携が重要になります。単に法令上の権利を認めるだけでは、国際的な評価を得にくくなっています。

通商問題化する知的財産

今回のニュースで特に注目すべき点は、知財保護の問題が通商措置と結び付いていることです。

知的財産権は、本来、発明、ブランド、著作物、ノウハウなどを保護し、創作や投資を促すための制度です。しかし、国際経済の中では、知財保護の水準が市場アクセスや貿易交渉の材料にもなります。権利保護が不十分な国では、海外企業が安心して投資できず、技術移転やライセンス契約も進みにくくなります。その結果、知財制度は産業政策、投資政策、通商政策の交差点に位置することになります。

ベトナムは近年、製造業の集積地として存在感を高めています。米中対立やサプライチェーン再編の流れの中で、ベトナムを生産拠点や調達先として重視する企業も増えています。そのような国で知財保護に関する米国の調査が進むことは、現地企業だけでなく、ベトナムに拠点を置く外国企業にも影響を及ぼす可能性があります。

企業に求められる対応

ベトナム商工連盟傘下のWTO国際貿易センターは、調査結果次第で追加関税などの貿易措置につながる可能性があるとして、企業に知的財産権順守の徹底を呼び掛けています。この呼び掛けは、非常に実務的な意味を持ちます。

企業にとって重要なのは、自社が権利者として保護を求める立場だけでなく、他者の知的財産権を侵害しない立場からも管理を強化することです。製造委託、部品調達、OEM、EC販売、広告素材、ソフトウェア利用、コンテンツ利用など、知財リスクは企業活動のさまざまな場面に存在します。

特に、ベトナムに関連する取引を行う企業は、自社製品が第三者の商標権、意匠権、著作権、特許権を侵害していないかを確認する必要があります。また、サプライヤーや販売代理店が模倣品や無許諾コンテンツを扱っていないか、契約上の保証や監査体制を整備することも重要です。

今回のように知財問題が通商問題化すると、個別の侵害訴訟にとどまらず、関税、輸出入規制、取引停止、レピュテーションリスクに発展する可能性があります。知財コンプライアンスは、法務部門だけでなく、経営、調達、営業、海外事業部門が連携して対応すべきテーマになっています。

ベトナムにとっての課題

ベトナムにとって、今回の調査はリスクである一方、知財制度の信頼性を高める機会でもあります。

米国に対して客観的かつ公平な評価を求めるのであれば、ベトナム側は、自国の努力を抽象的に説明するだけでは足りません。摘発件数、行政処分、刑事事件、裁判例、損害賠償、オンライン侵害への削除対応、権利者との協力体制など、具体的なデータと事例を示すことが重要になります。

また、海外企業だけでなく、国内企業やスタートアップにとっても、知財保護の強化は利益になります。自国企業が技術やブランドを育てる段階に入れば、模倣や無断利用を放置することは国内産業の成長を妨げます。知財制度の強化は、外圧への対応であると同時に、ベトナム自身の産業高度化に必要な基盤でもあります。

日本企業への示唆

日本企業にとっても、このニュースは無関係ではありません。

ベトナムは、日本企業にとって重要な製造拠点、販売市場、開発拠点の一つです。現地での商標出願、模倣品対策、契約管理、秘密情報管理、ソフトウェアライセンス管理などは、従来以上に重要になります。

また、米国向け輸出を含むサプライチェーンにベトナムが関与している場合、知財コンプライアンスの不備が米国市場での取引リスクに波及する可能性があります。現地法人や取引先任せにせず、日本本社としても、知財管理体制を確認する必要があります。

特に注意すべきなのは、「現地では一般的に行われている」「取引先が問題ないと言っている」という感覚だけで判断しないことです。国際的な通商問題に発展する局面では、現地慣行よりも、米国や国際的な権利者から見た適法性・透明性が問われます。

おわりに

USTRによるベトナムの知的財産権保護・執行に関する301条調査は、知財が単なる法務上の専門分野ではなく、国際通商、投資環境、サプライチェーン戦略に直結するテーマであることを改めて示しています。

ベトナムは、WIPOの世界技術革新力ランキングで一定の評価を得ており、知財侵害対策に向けた政策対応も進めています。一方で、米国が問題視しているのは、制度の存在だけでなく、実際の執行の有効性です。

企業にとっては、知的財産権を「守る」だけでなく、「侵害しない」「侵害に関与しない」「サプライチェーン全体で管理する」ことがますます重要になります。今回の調査は、ベトナムに関係する企業に対して、知財コンプライアンスを国際取引リスクの一部として見直すきっかけを与えているといえます。