香港はなぜ「知財取引センター」を目指すのか――特許・金融・税制・人材をつなぐ2026年知財政策

香港政府が、知的財産を単に「保護する権利」としてではなく、「取引し、資金を呼び込み、事業化する資産」として活用するための政策を本格化させています。

2026年9月16日に李家超(ジョン・リー)行政長官が発表した施政方針では、香港を「地域の知的財産権取引センター」とするため、原授標準専利(Original Grant Patent:OGP)の審査能力強化、知財融資、知財取得・ライセンスに関する税務上の控除措置、知財人材の育成、特許代理サービスの制度整備などを一体的に進める方針が示されました。香港知識産権署も、知財の評価・金融、取引コストの低減、管理・商業化人材の育成までを含む政策として位置付けています。

個々の制度を見るだけでは、特許制度や税制に関する複数の施策が並んでいるようにも見えます。しかし、全体を俯瞰すると、香港が目指しているものはかなり明確です。

それは、「知財そのものが動く市場」を香港につくることです。

「特許を取得できる都市」から「特許を自ら審査できる都市」へ

まず注目したいのが、OGP制度の強化です。

香港では2019年12月、それまでの再登録方式に加えてOGP制度が導入されました。OGPでは、中国国家知識産権局(CNIPA)、英国知的財産庁(UKIPO)、欧州特許庁(EPO)への先行する対応出願を前提とせず、香港に直接標準特許を出願することができます。

今回の政策では、2027年に主要技術分野のOGP出願を促進する試行的な支援措置を開始し、2030年までに主要技術分野について実体審査を自律的に実施できる体制の確立を目指すことが示されています。

ここで重要なのは、単に「香港でも特許を取得できます」という話ではないことです。

特許審査を自ら行うには、技術内容を理解し、新規性や進歩性を判断できる審査官を継続的に確保しなければなりません。したがって、審査能力の内製化は、香港の中に技術と知財の専門知識を蓄積することにもつながります。

香港の最初の5カ年計画でも、特許審査官チームを拡充するとともに、知財の創造、保護、管理、金融、利用、商業化までを担う人材を体系的に育成する方針が示されています。

つまりOGPの強化は、特許庁としての機能強化だけではなく、香港を知財ビジネスの拠点にするための基礎インフラ整備と見ることができます。

知財政策の中心が「保護」から「資産活用」へ広がっている

今回の政策でさらに興味深いのは、「知財融資」が明確に位置付けられていることです。

香港では2025年12月にIP融資サンドボックスが開始され、銀行、保険、評価、法律などの専門家を組み合わせながら、企業が知財を利用して資金調達する仕組みの検証が進められています。2026年度予算関連資料によれば、試行事業には香港の主要銀行3行とその顧客企業、法律・専門サービス機関などが参加しています。

知財金融には特有の難しさがあります。

土地や設備であれば、市場価格や換価可能性を比較的把握しやすい一方、特許や商標などの価値は、その権利の強さ、市場規模、代替技術の有無、ライセンス収入の可能性などによって大きく変わります。そのため、知財を金融資産として活用するには、「権利が存在する」だけでは足りず、評価、法務、金融を接続する仕組みが必要になります。

香港政府がサンドボックス方式を採用しているのは、この難しい部分を実際の案件を通じて検証しようとしているためと考えられます。

2026年施政方針では、すでにIP融資サンドボックスから成功事例が出ているとして、参加範囲を広げ、より実践的な次の段階を準備する方針も示されています。

これは、「知財を守る政策」から一歩進んで、「知財から資金を生み出す政策」へと対象が広がっていることを示しています。

税制を見ると「知財を香港に集める」という狙いが見えてくる

今回、香港政府は、知的財産権そのものや、その使用権を取得するための資本支出について税務上の控除措置を設ける法案を2026年中に提出する方針を示しています。

JETROによれば、香港にはすでに知財取得費用などに関する控除制度がありますが、関連会社間の取引、ライセンス契約時の初期一時金、海外で利用される知財などへ対象を拡大することが検討されています。

さらに、香港ではすでに「パテントボックス」税制も存在します。一定の要件を満たす研究開発由来の知財収益については、通常16.5%の利得税率ではなく、5%の優遇税率が適用される仕組みです。

この二つを併せて見ると、政策の方向性がより分かりやすくなります。

一方では、企業が知財を取得したりライセンスを受けたりする段階のコストを税制面から軽減し、他方では、その知財から収益が生じた場合にも優遇措置を用意しています。

つまり、「知財を取得する」「保有する」「利用する」「収益化する」という知財ビジネスの一連の流れを香港に呼び込もうとしていると考えることができます。

単なる特許出願件数の増加ではなく、企業の知財管理機能そのものを香港に集積させようとしている点が特徴的です。

「IPアカデミー」と特許代理制度は脇役ではない

知財取引市場を形成するためには、制度や税制だけでは不十分です。

知財価値を評価する人、ライセンス契約を設計する人、特許出願を支援する人、知財を使った資金調達を理解する人など、多様な専門人材が必要になります。

そのため、2026年第4四半期には「香港知識産権学院(Hong Kong Intellectual Property Academy)」が正式に始動し、技術革新、文化・クリエイティブ産業、商工業、専門サービスなどの従事者向けに、体系的な実務研修を提供する予定です。

同時に、香港政府は特許代理サービスについて登録制度、専門職名称、登録資格などを含む規制枠組みの整備も進めています。2026年中にパブリックコンサルテーションを行い、2027年には具体的な立法案を策定する予定です。

この二つは別々の政策のように見えますが、「知財を扱える専門家を増やす」という点でつながっています。

特許制度を整えても、それを利用する企業や専門家が十分でなければ市場は成長しません。金融制度を作っても、特許の価値を説明できる専門家がいなければ融資は成立しにくくなります。

したがって、人材育成と専門職制度の整備は、香港が知財取引センターになるための重要な市場インフラと位置付けることができます。

GBAとの制度連携が「香港だけの知財市場」にしない

もう一つ見逃せないのが、広東・香港・マカオグレーターベイエリア(GBA)との連携です。

政策目標では、2027年第1四半期に広東省・マカオとのルールや制度の整合を進める特別作業班を設置するほか、2026~2027年にGBA仲裁モデル規則を検討し、海外展開を目指すGBA企業と香港の法律・専門サービスを結び付ける取り組みも予定されています。

知財取引を増やそうとすると、契約や紛争解決の問題は避けて通れません。

特許や商標そのものは各法域の制度に基づいて存在しますが、ライセンス、共同研究、技術移転、M&Aなどの取引は国境や地域を越えて行われます。

そこで重要になるのが、どの法律を適用するのか、紛争が生じた場合にどこで解決するのか、判断や仲裁判断をどのように実行するのかという問題です。

香港が知財取引だけでなく、法律・仲裁・専門サービスとの接続を同時に進めているのは、このためでしょう。

香港の5カ年計画も、中国本土との連携を深化させ、中国本土企業が香港を知財取引プラットフォームとして利用して海外展開することを支援する方針を明示しています。

したがって、「地域の知的財産権取引センター」という構想は、香港内部だけで完結する市場をつくるというより、GBA、中国本土、海外市場の間で知財や技術が動く際の結節点を目指す構想と理解した方が実態に近そうです。

本当に重要なのは「知財の流動性」

今回発表された施策を整理すると、OGP制度は「権利をつくる仕組み」、IP融資は「権利から資金を得る仕組み」、税制は「権利を取得・利用するコストを下げる仕組み」、IPアカデミーと特許代理制度は「権利を扱う人を育てる仕組み」、GBAとの制度連携や仲裁制度は「権利を越境取引するための仕組み」と見ることができます。

これらを一本の線でつなぐと、香港政府が政策上重視しているものが見えてきます。

それは、知財の「流動性」です。

優れた特許が存在していても、売買されず、ライセンスもされず、資金調達にも使われなければ、経済的には十分に活用されているとはいえません。

反対に、特許について適切な評価が行われ、それを金融機関が理解し、企業間でライセンスされ、必要に応じて専門家が契約や紛争解決を支援できるのであれば、知財は企業のバランスシートの外側に眠る権利ではなく、実際に動く経済資産になります。

今回の香港の政策で興味深いのは、この一連の仕組みを個別ではなく、同時並行で整備しようとしている点です。

日本企業にとっても無関係ではない香港の変化

日本企業の視点から見ても、今後の動向は注目に値します。

特に、香港で知財を取得するかどうかという従来型の視点だけでなく、アジア地域の知財管理、ライセンス、技術移転、知財金融などの機能をどこに配置するかという観点から香港を見る必要性が高まる可能性があります。

2027年に予定される主要技術分野のOGP支援措置、特許代理サービスの制度設計、知財取得・ライセンスに関する税務上の控除制度、IP融資サンドボックスの拡大、さらにGBAでの仲裁ルールの整備が実際にどのような形になるのかによって、香港を利用するメリットや実務は大きく変わってきます。

香港が目指しているのは、単に「特許を多く取得する都市」ではなさそうです。

知財を生み出し、権利化し、評価し、資金化し、ライセンスし、取引し、必要であれば紛争まで解決できる場所をつくることです。

「知財大国」というと、特許出願件数や登録件数に注目しがちです。しかし、今回の香港の取り組みは、知財政策の競争軸が「どれだけ権利を持っているか」だけではなく、「その権利をどれだけ経済活動の中で動かせるか」に広がっていることを示す事例として、今後も注目する価値がありそうです。